景気ってなんだろう 岩田規久男/ちくまプリマー新書

 一般向け経済書の書き手としても定評がある一流の経済学者が書き下ろした景気変動とその安定化政策について基礎を学べる本。書店棚に時流にあわせて満ち溢れている「危機」本(帯に著者の顔写真が堂々とプリントされている類)のほとんどは信用が置けないのでこの1冊にお小遣いを賭けましょう。安いし、持ち運びし易いし。基本が中高生向けということで内容は平易だが、けっして水準を落とさず押さえるべき事柄は網羅しているところがミソ。
1.内容
 一国全体の景気動向を示す経済指標としてGDP国内総生産)を取り上げ、GDPの構成要素のうち民間経済主体が関与する家計消費・住宅投資・企業投資・輸出について、それぞれどのような経路によってGDPに影響を及ぼすかを見てゆく。このうち内需の牽引役となる企業の設備投資の増減について、収益や金利・設備価格などについて経営者が抱く将来予想が決定的な役割を果たすことになるのを強調している点後で見る財政金融政策を理解する点で重要となってくる。対照的に必需品の消費を含む家計の消費は、景気悪化の際のアンカー役としての役割が期待される。
 ‘02以降の景気回復が、内需ではなく輸出という外需頼みになっているのも重要な指摘だ。日本の輸出総額に占める米国のシェアは減少しているが、日本の輸出先として存在感を増しているアジア新興国の輸出に占める米国の割合が巨大なため、米国発の不景気が日本の経済成長率に悪影響をもたらす度合いは依然大きいことがここで得られる知見である。
 ‘02以降の景気回復が、以前の高度成長期やバブル期と異なり、国民にその実感を与えていないことについてもデータで論じてゆく。ここでも内需が十分に回復しないため、製造業を中心に国内企業が海外売上高や対外直接投資額を増しているように海外シフトしていることが原因として上げられている。厳しい海外企業との競争や海外への生産拠点移転が、輸出による企業収益改善を国内における実質賃金増加や雇用増大に結びつけにくくしているのだ。さらに、土地・株などの資産価格の高騰・下落が、「消費の資産効果」や金融機関の貸出の経路を通じて個人消費や設備投資の動向に大きく影響を与えることが語られる。
 以上により、日本の景気を取巻く環境やその弱点などを見た後、実状にあった景気安定化政策(現在の日本にあっては不景気の克服)を検討してゆく。
 ’70〜’90年代に多用された公共投資については、(1)公共投資により増えた所得について家計が一時的なものと認識して消費に回さない可能性(2)公共投資を行う資金調達のための増税が民間主体に負担となる。国債発行で賄っても国債価格減による金利上昇が民間投資にダメージ与える(3)(2)と同様のプロセスを経た金利上昇による円高が輸出にダメージ与える等により、乗数効果が減じていると説く。減税についても同様である。
 一方、日銀が担当する金融政策(金利引下げ策)は、(1)国債金利引下げを通じた市中金利引下げで民間投資を刺激(2)預金金利引下げで株・土地等への投資シフト促し「消費の資産効果」刺激(3)金利引下げによる円安で輸出刺激という経路で公共投資と比べて直裁に景気拡大に働きかける政策であると説明する。しかし、(1)金利引下げを幾度も繰り返した結果として余りにも金利が低水準になっていると引き下げ余地が乏しくなる(2)不景気が長引くと投資家、経営者、家計の先行きの見通しに弱気が定着してしまい、なかなか投資や消費を増やそうとはしなくなる(3)同様に円高差損を警戒して外貨獲得が滞りがちになり外為市場が円安へと誘導されにくい等の場合は、金融政策の効果は限定的になり、現在の日本はまさにこの状況にあることが示唆される。
 最後に、日本の長期にわたる平成不況や今回の米国発の世界同時不景気の引き金となった住宅等資産価格の高騰や原油価格の高騰と金融政策の関係が語られる。
 まず、かつて高インフレに悩まされた経験から生活の安定化のために金融政策が編み出されてきた経緯に触れた後、現代ではそれがインフレ率を低水準(1〜3%)で安定的に保つことを目指す「インフレ目標政策」として結実し、日本を除く先進国や新興国で共有化されている有様を見る。その際、インフレ目標政策を採用した国が採用後はインフレ率低下のみならず経済成長率を安定化させ不景気を免れてきたことに成功していることを示している。ここに著者が日銀もインフレ目標政策を採用する必要性を説く論拠がある。
 ここで重要なのは、「インフレ目標政策」採用国の中央銀行では、資産価格が高騰した場合でもそれが実際のインフレ率が中期的に目標インフレ率より高くなることが予想されない限り金融引締め策をとることはしない、という消極的な姿勢をとり続けていることである。実際に景気過熱していることが観察されない限り、資産価格引き下げを狙って金融引締めを行うことは景気後退をもたらしてしまうことを警戒しているためである。著者は、資産価格高騰に対しては価格暴落による不良債権を金融機関が過剰に抱え込まぬようにする金融監視政策で、原油などの資源価格高騰に対しては省資源・再利用・代替資源開発などいずれも金融政策以外の政策割当をもって処するべきことを説き稿を終えている。
2.効用
 まず、景気に関わる各経済主体がどのようなルートを経て景気全体に影響を及ぼすかについて、’00年代の日本という素材を用いて具体的に判り易く解説している本であるのが第1の効用であろう。景気のメカニズムを明らかにすることで本書後半に見られるように景気回復のため取るべき政策について論じることが初めて可能になる。
 そして、景気安定化(日本の場合は景気回復)を担うべき政策手段としての金融政策が出来ること、それが効果を発揮する条件、そしてその限界について明瞭に理解できるようになることが第2の効用である。
 例えば、「金融緩和策はこれまでも不況脱却のため度々とられてきた政策であり、それによって劇的に景気回復が観察されなかった以上、景気回復に有効な政策とは思えない」という意見に対しては、「失われた10年の間に行われた金融政策は余りに小規模かつ伝統的であったため国民のデフレ期待を覆せなかったのではないか、さらにデフレへの期待を深めたことが不況をより長引かせるスパイラル的な状況に当時あったのではないか」と疑問を呈することが可能になるだろう。
 また、今次の世界同時不景気に関して「資産価格バブルを拡大させないように金融引締めを行わなかったFRBこそ今回の世界同時不景気を引き起こした責任を問われるべきである」という意見に対しては、本書にあげられた望ましい政策割当や日銀の’90年代の“実績”をあげ「バブル潰しを目的とした金融引締めはむしろ不景気を前倒しさせるだけではなかったか」と問いを発することができる。
 さらに今次の不景気に際して日本は欧米やアジア新興国より傷が浅いといえるかについては、景気安定化はもちろんのこと物価安定化についてすら責を免れようとする中央銀行を有す日本が、’90年代以降不景気から逃れてきた実績を持つ「インフレ目標採用国」(事実上の採用を行っている米国を含む)と比べて果たして優れた対応能力を持つと言えるか自問してみることができるだろう。

景気ってなんだろう (ちくまプリマー新書)

景気ってなんだろう (ちくまプリマー新書)