神様のメモ帳3(杉井光/電撃文庫)

 1・2巻は未読。
 退院して来た彩夏の居場所を奪ってしまう理不尽な園芸部廃部通告。部の存続を賭け、4年前に学内で起こった事件の解明に奔走する物語。
 彩夏の記憶喪失もそうなのですが、「記憶」という言葉がキーワードになって来るお話だと思います。
 悲惨な「事件」の真実を知る2人の死者と1人の生者。たった一人「事件」を「記憶」する生者は、彩夏の居場所を守ろうとする探偵達とほぼ同じ事情で真実を隠さなければならない。事情を察した探偵達は、「記憶」を正当に継承できる人物にのみ真実を伝えます。
 「記憶」がそのように人を選ぶものであるとすれば、「記憶」の仲介者である探偵達もその資格を厳しく問われることになります。ニート仲間の先輩達が今回は探偵に協力できないと断ったのも、組長の先輩が「直接聞け」と言ったのも、そのような「記憶」は軽々しく扱えるものではない/扱ってはならないということを百も承知していたからでしょう。探偵の一人、鳴海がある意味通過儀礼そのものの戦いをしなければならなかったのも、「記憶」に関わる資格を試されていたからだと解せます。
 困難な途を行くことを仲間に要求するニートたちは、能力的にハイスペックなばかりでなくユニークで高い倫理性を備えた集団であると言えるでしょう。「最近のおすすめCD」さんが指摘した集団の「絆の強さ」(http://blogs.yahoo.co.jp/blacktomcat1927/42905784.html)は、以上見た倫理性を共有しあうことによって保障されているのだと思います。
 ここからは余談になりますが、死者に関する「記憶」の担い手/伝え手にどのような倫理性・道徳性が要求されるのかという議論について次のようなものがあります(http://homepage3.nifty.com/bunmao/0406.htm)。ここの議論で扱われているホロコーストと本作品で描かれた死を完全に同一視することはできないでしょう。しかし、死者を真っ当に「記憶」し共有してゆくことの困難さ(本作ではそれは「事件」を回顧する先生の無理解さに端的に現れています)を描き出している点で、それらは地続きであると考えるのです。