確率的発想法 小島寛之/NHKブックス

ISBN:9784140019917
 今更ながら読了。だが、その甲斐はあった。
 前半部の理論説明は、天気や宝くじ予想など卑近なモノを例に取り上げながら、けっして水準は落としていない。私同様確率論は高校以来という根っからの文系の方は少々面倒だが読み飛ばさず丹念に筋を理解することをお奨めしたい。幸い、記号・式等の使用は最小限に抑えられていて全く理解できないということはなかった。高校の時の無味乾燥な確率のお勉強から受ける印象と違って、現代の確率論が、限られた試行数の中で最適の選択を目指したり、自動車事故より確率が低くとも原子炉事故を重視しがちな僕たちの主観を分析対象としたり、より現実の世界で「使える」方向に進化していることがイメージできると思う。 
 そして山形浩生さんが言うように、後半部で確率理論を通して人はどう振舞うのか、良い社会のあり方とは何かという領域まで踏み込んでいくところに本書の妙味がある。
 人の振る舞いについては、最悪の事態を避けようとする主観的な合理的な個人の振る舞いが苦境挽回のための新規投資を不成功に追い込んだり、自分がある情報を知っているだけでは不十分で他人がそれを知り得ていることを自分が認識して始めて自分自身の行動を変化させたり(すなわち公的情報発信の必要性)等の研究成果が紹介されていた。この二例は、景気の回復や維持は個々の経済主体ではコントロールできる代物ではないこと、つまり「公共財」であり政府の積極的な公共政策の課題であるとする稲葉振一郎さんが「経済学という教養」*1で指摘した問題意識を証立てるものだと思う。
 また、能力や条件を与えられる前の白紙状態を想定するロールズの思考実験に、「今後自分にふりかかるできごと」の確率が不明であるために最悪の事態を避けようとする人間の性向を結びつけ、最悪な境遇に陥った場合でもみじめな思いをしなくてすむ格差のあまりない社会を正当化しているところは、「そういう考えもあるだろうな」とうなずきながら読んだ。
 しかし、終章は納得いかない。例えば、ホームレスの人達を見て「あのとき別の一手を打っていれば、彼等の境遇は俺のものだったかもしれない」と述懐する棋士を紹介し、彼の「そうであったかもしれない自分」という自覚を所得再分配の正当性に結び付けている。その時、麻雀で滅多にない手であがった勝者が敗者に奢ることを例にあげているのだが、両者を一緒にするのはおかしくはないか?麻雀の場合その飲食代はもともと敗者の財布から出たものであるのに対して、棋士の勝利とホームレスのみじめな境遇とは何の因果関係もないのだから。このエピソードは、棋士が慈善等するときの個人的な動機の説明になりえても、再分配を制度化する論拠にはならないと思った。
 さらに、著者の師匠・宇沢弘文氏が提唱する自動車の社会的コストの計算に「自動車がなかったとしたら享受できた筈の安全や環境」を毀損した分も含めよという論は噴飯物。例えば、歩車分離のために要する費用などを宇沢はあげているのだが、元々馬車がメインの交通手段ではなから分離が実現していたヨーロッパとそうでない日本と比べると明らかに日本の方が割高な計算になってしまうのは変ではないか。そのコストを日本のメーカーなりドライバーなりに負わせようという主張なのだが、原因は彼我の交通文化の違いにあるのであってメーカーやドライバーが負わねばならないいわれはないだろう。
 このように突っ込みどころはあるのだが、僕たちの日常の選択行動から社会の選択までを確率から説明しようとする試みは野心的で刺激的。関心の幅を広げるきっかけとして最適の本。