アダム・スミス―「道徳感情論」と「国富論」の世界 (堂目卓生/中公新書)

 既に赤間道夫氏の判り易い書評があるので、本全体の紹介などは割愛して感想だけを。
 興味を引かれたのは、スミスが自らの原理を応用する場として取り上げており、当時喫緊の時事問題でもあった「アメリカ独立問題」について述べていたところ。スミスは、英本国と北米植民地の対等合併と本国からの独立という2つの解決の道を読者に示す。一見、正反対のように思える2つの結論だが、英本国の特権商人等に有利だった北米植民地貿易への規制を最終的に撤廃することで、英米間さらにはその他ヨーロッパ諸国との間にある紛争の種の除去を目的とする点、両者は共通する。その際、規制により植民地商人のみならず本国の非特権商人が被る社会的損失、植民地の防衛に要する費用などが見積もられ、両案を採用することの損得が冷静に語られている。「大英帝国」の面子を守るだの、米国「市民主義」に正義ありだの、感情論・観念論が一切出てこない点に注目したい。その国土の大きさと天然資源の豊富さから北米植民地がいずれ本国をしのぐこと、独立した場合、旧植民地はこれまでのいきがかりを捨て英国の最良の同盟国となる可能性があることを予測している点は、後の歴史を知る我々から見て慧眼と評することができる。
 スミスが、このように特定の立場を離れ、当時最も妥当と思える結論を導き得たのは、彼の思想の根っこに富貴や名声に左右されない平静の状態を良いとする道徳哲学があったからだ、と著者は言う。本書の最後では、最晩年に書かれた「道徳感情論」最終版の一部が4頁以上にわたって引用している(以下に一部再引用)。

 人間生活の不幸と混乱の大きな原因は、ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇の違いを過大評価することから生じるように思われる。貪欲は貧困と富裕の違いを、野心は私的な地位と公的な地位の違いを、虚栄は無名と広範な名声の違いを過大評価する。それらの過度の情念のうちのどれかの影響下にある人は、個人の状態として不幸であるだけでなく、しばしば、彼がそのように愚かにも感嘆する境遇に到達するために社会の平和を乱そうとする。彼は、ほんの少しでもまわりを観察すれば、健全な心の持ち主が、人間生活の通常の境遇のすべてにおいて、等しく冷静で、等しく快活で、等しく満足していることを確信したはずである。たしかに、それらの境遇のうちあるものは他のものよりも好まれるに値するかもしれない。しかし、それらの境遇のうちのあるものは他のあるものよりも好まれるに値するかもしれない。しかし、それらのうちのどれも、慎慮または正義の諸規則の蹂躙にわれわれを駆り立てる情熱的な欲望をもって追求されるに値するものではない。(中略) 慎慮が指図しないのに、そして正義が許容しないのに、自分の境遇を変えようと企てる人は、あらゆる危険な賭の中でも最も引き合わない賭をするのである。その人は、ほとんど何も得られないのに、あらゆるものを賭けるのである。(本書pp.281-282)

 スミスは、人々の感情を無視して自らの「理想」に適う「改革」にひたすら邁進する人々を「体系の人」と呼び、そのような「改革」は社会を分裂させかねないため、もたらす損失は既得権益が保たれることによるそれより大きいとした。このような「体系の人」は今日も健在のように思える。財政赤字削減が自己目的化してしまったかのような自治体首長(すなふきんの雑感日記)、米国牛肉輸入禁止による自国の損失を考えることなく政権を崩壊寸前にまで追い込む隣国の民衆(Baatarismの溜息通信)etc. 
 スミスの教訓は、まず生産的な営みを行うためには、そのような熱狂から身を遠ざけるべきことを示した点にあると思う。そして、「徳」の状態を目指すことを意識的にはしない我ら凡人であっても、日々の営為から公正な「市場」を通じて社会的厚生を富ませるのに貢献できることを2つの主著で説明したところに、彼の偉大さがあったと言える。